世界史を変えた13の病 | ジェニファー・ライト著
1 | アントニヌスの疫病
2 | 腺ペスト
- 16世紀 | 石けん
- 20世紀 | 抗生物質の登場(ストレプマイシン)
3 | ダンシングマニア
カビが原因だったのでは?という説もある。
麦角菌に感染したライ麦を食べると、循環器系や神経系に対して様々な毒性を示す。
歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
麦角菌の生活環は19世紀になって明らかにされたが、麦角と麦角中毒との関係はそれより数百年以前に知られていた。
中世ヨーロッパでは麦角菌汚染されたライ麦パンによる麦角中毒による騒ぎがしばしば起きている。聖アントニウス会の修道士が麦角中毒の治療術に優れるとされたことから、ヨーロッパでは麦角中毒は「聖アントニウスの火」 (St. Anthony’s fire) とも呼ばれてきた。これは聖アントニウスに祈ると治癒できると信じられてきたからである。
古くは治療法として転地療養や旅が良いとされたのは、別の土地へ行くことで麦角菌に汚染された食物を口にせずに済むようになるからとされている。
また、ヨーロッパ・アメリカの歴史上の事件・出来事の中にも、後年の調査や推測の中で、原因や要因として麦角中毒との関係が唱えられているものがある。
1075年 | 聖アントニウス教会修道士が麦角中毒患者を治療する「聖アントニウス病院」を開設。「聖アントニウスの火」
その他の参考 | エンドファイト感染草摂取による中毒症に関する研究
麦角菌が寄生するとまさに角のような菌核と呼ばれる菌糸の固まりができます。これは古くから「悪魔の黒い爪」と呼ばれましたが、これが麦角症をおこすことがわかったのは17世紀になってからのことでした。
エンドファイト感染草摂取による中毒症に関する研究 | 公立大学法人 宮城大学
4 | 天然痘
- 1721年 | 人痘接種の成功
- 18世紀の終わり | 人痘接種の世界的普及
- プロイセン王フリードリヒ2世、すべての兵士に接種
- 1796年 | エドワード・ジェンナーによる牛痘接種の成功
- 種痘(vaccination) | vaccaはラテン語で「牛」
- 1911年 | ウィリアム・オスラーが種痘を拒絶する人々を批判
- ワクチンが生まれる前の世界では、友人や家族の30〜90%が死ぬ可能性
5 | 梅毒
- 1937年 | バロセロナで発見される(新世界からの持ち帰り)
- はじめのアウトブレイクで100万人以上のヨーロッパ人が死亡したと推定される
- 1519年 | ウルリヒ・フォン・フッテンが梅毒治療にユソウボクを使用。ただし治癒には至らない。
- 1520年 | 梅毒について最初に記録された
- 1812年 | 梅毒に感染したイギリス兵が「水銀剤治療」を受ける。
ポルトガル兵は受けなかった。 - 1891年〜1910年 | 2,000人を対象に行なったオスロ研究 | 水銀治療を受けなかった患者の60%が、治療を受けた患者よりも合併症を起こす数が少なかった。
- 1947年 | ペニシリンによる治療法が確立
6 | 結核
- 1882年 | ロベルト・コッホによる結核菌の発見(顕微鏡と塗抹標本)
- 1921年 | BCGワクチンの開発
7 | コレラ
- 1846年 | イギリス、エドウィン・チャドウィック | 「においが病気の原因」と発言
- 1846年 | ニューサンス除去及び伝染病予防法
ニューサンス
コトバンク「ニューサンスとは」
1 煤煙(ばいえん)・汚水・騒音・震動などによって、他人の財産や健康・安楽・利便などを侵害する行為。英米法で発達した概念。生活妨害。
2 ⇒不快害虫
- 19世紀半ば | ロンドン | 人口2,500万人 | 一部屋に五家族が住む | 家の中で家畜も飼っていた
- 1832年 | ジョン・スノウがコレラのアウトブレイクに対処
- 1848年 | ロンドンで最初の症例は、ハンブルクから来た船乗りであることを突き止める。
このとき、イングランドとウェールズで5万人の死亡者が出た。 - 1849年 | コレラは水によって広がると確信。
- 1854年 | コレラ流行時、醸造所の労働者80人は感染しなかった。井戸水ではなく、酒を飲んでいた。
- 1854年 | 8月28日、ベビー・ルイスがコレラに感染 | ブロード・ストリート40番街 | コレラで死んだ赤ん坊のおむつを洗った水を、母親が水溜に捨てる | 近くのポンプ給水が汚染され、数日で近隣住民が死亡
- 1854年 | 9月3日までに近隣住民74名が死亡、数百名が瀕死の状態に。
その他の参考 | ジョン・スノー
8 | ハンセン病
- 1873年 | ゲルハール・ハンセンが「らい菌」を発見
- 1873年 | ダミアン神父がハワイのモロカイ島へ
9 | 腸チフス
10 | インフルエンザ
- 1918年3月 | 重症型のインフルエンザが報告される。
- 1917年 | アメリカで「モラール法」が成立。
病気についての報道をすると20年間の懲役を課せられるリスク。
- 1918年 | 第一次世界大戦に向かうため、多くの若者がキャンプへ移動していた。
- カンザスのキャンプ、ファンストンには2万6千人の兵士が駐屯。
- 3月4日 | ファンストンで「重症型のインフルエンザ」の可能性がある最初の患者が報告される。
- 3週間以内に1,100名の兵士が発症、38人が死亡。
- 1918年 | 5月3日、中立国スペインで「インフルエンザの死亡者数増大」について報道。
- 5月22日 | スペインの新聞が「新種の病気」について報道。5月は祭日が多く、食中毒の可能性も疑われた。
- 5月28日までに、アルフォンソ国王、800万人(誇張された可能性もある)の国民が感染。
- 1918年 | ロンドン | 7月の第一週で287名が死亡。
- イギリスの新聞は「戦争疲労と呼ばれる神経の弱体化」と報道。
- イギリス軍はその後、これを世界中に伝播。インドや北アフリカでも症例がみつかる。
- 1918年 | 秋、「第二波」
- 海外でアメリカ軍兵士の不足。
- 一部隊で最大80%の兵士がスペイン風邪で死亡。
- 第一次世界大戦中、4万人のアメリカ兵士がスペイン風邪で死亡。
- 9月はじめ〜9月15日までに、フィラデルフィアでは600人の兵士が病院に収容。
溢れた兵士は市民病院へ、そこから感染が広がる。 - 9月26日 | インフルエンザ流行を否定する新聞報道。
- 9月28日 | リバティ・ローン・パレードに大勢の人が詰めかける。
- 10月1日 | フィラデルフィアで117名がスペイン風邪で死亡。
- 10月10日 | 759名が死亡。
- 歩道が腐敗した死体で埋まり、馬車が回収。棺の高騰。
- 政府は葬儀に補助金を支給しなかった。
- 10月中にフィラデルフィアでは1万1千人の死者が出た。
- 衛生局長が感染拡大を否定したシカゴでは、感染者の死亡率が15%から40%に上昇。
- ニューヨークでは9〜10月の間に3万736人が死亡。
- 10月、19万5千人がスペイン風邪で死亡。
- 感染を恐れて外出しなかったため、餓死する人もいた。
- 1919年の冬、穏やかな「第3波」
- 1920年第に断続的なアウトブレイクが起きたのち、収束。
- スペイン風邪は世界中で2500万〜1億人を死亡させたと推測される。
- 約67万5千人のアメリカ人が死亡。
11 | 嗜眠性脳炎
12 | ロボトミー
- 1955年 | アセトアミノフェン
- 1974年 | イブプロフェン
13 | ポリオ
- 1890年代後半 | アメリカで発生
- 1916年 | 2万7千人の症例
- 1949年 | 4万件
- 1952年までに5万7千件
- 1942年 | ドクター・トーマス・フランシスがインフルエンザワクチン開発を目指し、ジョナス・ソークを雇用。
- 患者の同意なしに、実験段階のインフルエンザワクチンを接種する研究に参加。
- 1938年 | フランシスとソークはインフルエンザワクチンを開発。
- 1947年 | ソークはポリオに関心を向け、研究を開始。
- 不活性化ワクチン開発を目指す。
- 生ワクチンは1回でOK。ライバルのアルバート・サビンが開発に着手。
- 1954年 | 不活性化ワクチンの試験開始。
- 1955年 | ソークのポリオワクチン成功。
- カリフォルニアのカッター・ラボラトリーズ生産のワクチンに不備。
アスベストフィルターではなく、ガラスフィルターを使用していたため。 - 1961年 | 生ワクチンの利用が可能に。
訳者あとがき
病人を悪者扱いせず、病人と病気を切り離して考え、病気を全人類の敵と見なすことが大切だと著者は言う。
世界史を変えた13の病